2014.02.28 - 追悼大瀧詠一
風立ちぬ 風立ちぬ
松田聖子

(1981)

シングル「風立ちぬ」(作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一、編曲:多羅尾伴内)は松田聖子の7枚目のシングルとして1981年10月7日にリリースされました。当時の彼女はほぼ3か月に1枚という驚異的なペースでシングルを発表していました。リリースの頻度と季節を先取りしたような楽曲の数々を今聴くと、音楽がファッションや食べ物と同じように季節を彩るアイコンとして日々の生活に溶け込んでいた時代のものだったんだなあと改めて思います。

デビュー曲の「裸足の季節」から3作目の「風は秋色」まで続いてきた三浦徳子−小田裕一郎コンビを経て4作目の「チェリーブラッサム」では財津和夫が作曲を担当。三浦徳子と2枚のシングルでコンビを組んだ後、彼女のシングルとしては初めて“この人の詞は僕が書くべきだと直感した”松本隆が作詞を担当します。松本作品の第一弾として財津和夫とのコンビで発表した「白いパラソル」は1位を獲得し、松本隆−松田聖子プロジェクトは順調な滑り出しとなりました。

そしてこのころ事実上松田聖子のプロデューサーであった松本さんは旧知の大瀧詠一に作曲を依頼します。3枚目の「風は秋色」でチャート1位を獲得して以降、出すシングルが連続して1位を獲得し続ける中で発表されたのがこの「風立ちぬ」でした。まさに彼女がアイドルとしての絶頂期を迎えつつあったこの時期、ここまで続いてきた連続1位獲得は至上命題ではなかったかと思われます。
それだけに彼女の作詞を担当して2作目の松本さんが職業作曲家ではない大瀧さんを人気アイドルのライターとして起用することは、当時としてはかなり野心的な試みだったのではないでしょうか。

しかしながらこの辺りにはどうにも確信犯的な思惑があったと思えなくもありません。7年ぶりにコンビを復活させた“ロンバケ”のヒットや太田裕美で十分な裏付けはとれていたのだと思います。さらに同時期にヒットしていたYMOから細野晴臣をすでに歌謡界に引っ張り込んでいた(「ハイスクール ララバイ」/イモ欽トリオ)松本さんにとって、はっぴいえんどの盟友大瀧さんをも招き入れたのは、十分な信頼感と勝算があってのことだったのではないでしょうか。松本さんは「次は大瀧さんの番だと思った」と・・・。

「風立ちぬ」について松本さんはずっと海のリゾートだったから今度は山の避暑地、昔から好きだった軽井沢をモチーフにしようとアイデアを練ります。“立ちぬ”という文語表現については「ようやく堀辰夫や立原道造の世界を歌える歌手に巡り逢えた」と語っています。
一方、作曲の大瀧さんは先に上がってきた詞をみて「文語体の出だしとすみれ、ひまわり、フリージアという花屋の店先のような詞」に面喰らってしばらく目につかないところに隠していた(笑)そうなので、かなり苦労して作曲したようです。

この曲の下敷きになっているのはJimmy Clantonの「Venus In Blue Jeans」という曲でこのことは巷間よく知られています。もちろん大瀧さんのことだから“分母”であるアメリカン・ポップスのいくつものエッセンスがこの“分子”にも練りこまれているとは思うのですが、それについては今後は「各自で」ということだそうなので、これから楽しんで探求していきたいと思います。

ともあれこの曲には文語調の歌詞にアメリカン・ポップスの王道のようなメロディを持たせたというところに組み合わせの妙を感じます。「Venus In Blue Jeans」を作曲したのはJack Kellerという作曲家。この人はアルドン、スクリーン・ジェムスのスタッフ・ライターとしてBarry MannやNeil Sedaka、Ellie Greenwich、Carole Kingといった人たちと切磋琢磨していた人ですからまさに王道中の王道。アルドンは60年代にはアイドル歌謡の作品を次々に発表して大ヒットさせる出版社でした。そしてJack KellerはConnie Francisに「Everybody's Somebody's Fool」や「My Heart Has A Mind Of Its Own」といった曲を書いていました。大瀧さんは松田聖子に日本のConnie Francisというイメージを抱いていたようですので、”60年代東海岸のアイドル歌謡”の視点からJack Keller作品の世界を彼女にぶつけてきたのはもう必然としか言いようがありません。

因みにすでに大瀧さんは75年当時にラジオ「ゴー!ゴー!・ナイアガラ」でJack Kellerを特集しそこで「Venus In Blue Jeans」やConnie Francisの曲もかけています。もうこの時からきちんとした伏線が張ってあったというか一本筋が通っていたのだという気がしてなりません。

大瀧さんはプロデューサーとしてはPhil Spectorから最も大きな影響を受けたことは言うまでもありませんが、作曲家としてはアルドン、スクリーン・ジェムス、いわゆるニューヨーク、ブルックリンの作曲家たちに最も大きな影響を受けたのではないでしょうか。そしてそのエッセンスが日本のトップアイドルにも通用するのか、日本の歌謡界でもヒットをするのかということを、松田聖子で大胆に試したのではないでしょうか。

「風立ちぬ」は松本さんの文語的な歌詞の世界と大瀧さんのアメリカン・ポップスへの深い理解とが絶妙な化学反応を起こしました。そのためかむしろ当時松田聖子は「いい曲だけど自分には向いてない」と思っていたようでなかなかヴォーカルダビングが行われなかったそうです。それでもシングル用の6テイクをすべて完璧に歌い切ったと後に大瀧さんは回顧しています。当時喉の調子が悪く歌入れには相当苦労したといういきさつも含めてシンガー松田聖子の矜持を感じるエピソードです。
むしろこのハスキーな感じがこの曲の魅力を一層高めてくれていてそれはそれで怪我の功名であったのかもしれません。

かくしてこの曲は作曲家大瀧詠一として初のチャート1位を獲得する記念すべき作品になったのです。



今日の1曲


(Kazumasa Wakimoto)




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