第4回 : 中村欣嗣さん



ドラマーを目指した青春時代

-ドラムをやられていたと伺ったのですがいつ頃から始められたんですか。
 小学校6年生くらいの時から、みんな集めて人前で「お富さん」なんかを歌っていたんです。
 中学2年くらいまで、歌謡曲オンリーで「♪月がとっても青いから〜」とか。遠足とか行くと、そんなのばっかり。先生に「また変なの歌ってる」って叱られたりして。そういう感じで僕が音楽好きなのをみんな知っていたんですよ。今でも音楽は何でも聴くんですよ。「清水次郎長伝」大好きですから。
 それで中学に器楽部ができるっていうんで、クラスで勉強ができる上から3番目ぐらいまでを集めたんです。当然僕はそこには入っていないんですけど、なぜか呼ばれちゃったんですよ。そこからが始まりです。

-器楽部ではどんな音楽を演っていたんですか。
 クラシックばっかりです。「ペルシャの市場」とか「ドナウ川のさざなみ」とか。オーケストラなんですよ。外部から講師を呼んだりしていましたね。弦は弦で練習したりして。僕は小太鼓、大太鼓でした。ティンパニーはなかったですね。

-中学でオーケストラっていうのも凄いですね。
 校長先生が意欲のある方でした。当時の先生は一癖もふた癖もある先生ばかりでしたから。音楽の時間、はじめて聞かされたのが「運命」でした。僕は感想文を書けず白紙で出して。当然職員室に呼ばれ、どうして感想を書かないのかって。僕は先生に、「こんなすごい音楽は文章になりません」って言ったら、その先生はぼくの白紙の答案用紙にその場で100点って書いてくれたんですよ。それから僕はクラシックが好きになりました。 
 中学、高校とずっと打楽器をやっていて、高校卒業後に東京に行けばその道の夢が叶うんじゃないかと思って上京したんです。会社勤めをしながら銀座なんかにあったジャズ喫茶でいろんな音楽を聴きました。ある時「美松」でドラマーの白木秀雄さんを聴いたんです。というか銀座4丁目に行ったらドラムの音が聞こえてきて、なんだろうって聴いていたら、白木さんだったんです。当時は「美松」が有名なジャズ喫茶だってことも知らなかったんですが、東京に出てきて良かったと、それをきっかけにしょっちゅう聴きに行きました。
 「美松」以外にもいろんな店に聴きにいきましたし、実際にドラムを叩かせてくれる店もあったりして。
 僕が成人の日式に行かずに、「ニュー美松」って名前が変わったんですけど、そこでクレイジー・キャッツ・ショーをやっていてそれを友達と見に行ったのが深く記憶に残ってますね。





-そこからオーディオ業界に入るまでのいきさつは?
 それで本格的にドラムの勉強をしたくなって明治93年くらい(笑)に自衛隊に入りました。お金がないけど、勉強したいと。自衛隊なら給料もらいながら朝から晩までドラム叩けるし。中学生の時に教わった方が陸軍の軍楽隊の出身の方だったんですよ。その方に大変お世話になって、そこに入って勉強しました。4、5年いてこれくらいなら外でメシ食えるかなというくらいの腕前になったころ、あるバンドからお誘いがあって、自衛隊をやめてプロ入りしました。
 プロで5年くらいドラムでメシを食って、いい思いもしたし楽しい思い出もあって、ある時スランプでもないんですけど、ちょっと気分転換がしたくなって、一日じゅう音楽聴けていいなっていうんでオーディオ業界に入ったんです。1年くらいやって音楽業界に戻ればいいやって。
 この世界にはこの世界で感動があるんですよ。僕、感動症なんで。最初はオーディオの知識も多くはなくて、その代りにクラシック、ジャズ、ポップスの話をしていたら、それがお客さんには新鮮だったらしくて、けっこうお客さんがついてそのお客さんがまた別のお客さんを紹介してくださって、それがすごく嬉しくて。俺がここで辞めたらこの人たちを裏切ることになるな、この人たちにもっといい思いしてもらいたいな、それなら店長になるしかないなってんでがむしゃらに仕事したら1年半で店長になりました。その記録はまだうちの会社で破られていないと思います。そんな感じで今日に至ってるんですよ。

-バンドの気分転換が本業になっちゃったんですね。
 気分転換がダイナミック・オーディオだったんですよ。友達が「ラオックスか石丸かサトウ無線かダイナミック・オーディオだったら仕事あるよ」って探してくれて、で”ダイナミック・オーディオ”、「名前かっこいいな」って。自衛隊の頃はダイナミック・オーディオで買っていたし・・・・。
-自衛隊でのお仕事はやはりマーチみたいなものが中心だったんですか。
 いろいろやってたんですよ。自衛隊の中でもマーチばっかりじゃなくて、ジャズ好きなやつら集めてビッグ・バンドやったり。僕ビッグ・バンド好きなんですよ。譜面書いたりしていわゆるバンマスです。
 自衛隊は朝8時から2時間はコーリューブンゲンやソルフェ−ジ、午前中は理論を学んで、和声学を勉強したりしてました。午後になると各個錬磨とかセクション錬磨って名前で、まあ自分たちでトコトコ叩いてりゃいいんですけど、13時から17時までは合奏の練習。毎日この繰り返しです。
 場所は朝霞の自衛隊でした。うちの音楽隊ははじめ練馬にあって、朝霞に引っ越したんですけど練馬駐屯地にいた頃、その近くをよく山下(達郎)さんが通っていて、聴いてたらしいんですよ。「しょっちゅう聴いてたよ。うまかったよね」っておっしゃっていましたね。

-すごい偶然ですね。
 あと地方に演奏に行ったりしていましたね。刑務所に慰問に行ったときには感動しました。前橋の刑務所、女性専門の刑務所なんですよ。入るとすごいですよ。「抱いてくれ」とかね、露骨。「たまんないわ」とか「久しぶりに男見た」とか野次ばっか。それでようやく演奏始めるんですけど、「♪母さんが〜」とかやると、段々みんな下向いてきて、涙流す子とかもいて帰りにはみんな別人になっちゃうんですよ。別人28号(笑)。僕なんかも感動症だから、ドラム叩きながら泣けてきちゃうんですよ。刑務所に入るようなことするやつらって、実は感動するやつって多いんです。男の刑務所にも行きましたけど、そこでも同じでしたね。



-休みの日などはどう過ごされていたんですか。
 ジャズ喫茶通いですね。今日は銀座のニュー美松、明日は新宿ACB、新宿ラセーヌ。今日は銀座でウエスタンやってるところとか、ハワイアンとか。今日はシャンソン聴こう、越路吹雪がやってるよ、銀巴里で。っていう感じでどこでも行きましたね。ジャズ喫茶は殆ど行ったと思います。

-お金もかかったでしょう。
 給料が1万1千円で、寮費を引かれて8千円。それを全部そういうことに使ってましたね。それと煙草。レコードを買いまくっていたのも自衛隊のとき。山野楽器さんが売りに来てくれて買ってましたね。

-プロの時代はジャズをやられていたんですか。
 そうです。ダンスホールとか、あと、桜田淳子さんのバックとかそっち系をやっていました。

-ツアーなんかにも同行したんですか。
 その頃は、ツアーとは言わなかったんです。びーた(「たび」の逆)「えー?また、びーたなの」ってな感じです。偶然、春日八郎さんのバックもやっていたんですよ。春日八郎のバックをやるなんて夢にも思わなかったですよ。

-このスネア・ドラムは当時叩いていた物ですか。
 これは思い出の楽器。30ウン年前で、世界で一番高いスネアです。これは年季が入ったスティック・ケースです。スネアはラディック製、スーパー・センセティブルモデルで響線(スネア)が1本1本調整できるんですよ。これは自衛隊の時使っていたんです。



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