第2回 : 宮治淳一さん



オールディーズ・ミニコミ雑誌作り

-オールディーズにのめり込んでいったのはこの頃からなんですね。
 まだその頃、日本では自分以外は誰も(オールディーズなんて)聴いていないと思っていたんですよ。1973年かな、高校3年のある日、銀座のヤマハにこれが置いてあったんですよ。当時300円。

 お亡くなりになった宮下(静雄)さんが作った 「Forever 1号」です。日本で最初のオールディーズ・マガジンですね。Beatles 関係の書籍で Phil Spector のことは The Ronettes をプロデュースしたとか知っていたけど、これではじめて「Philles Label Discography」というのを見たんです。頭クラクラしましたね(笑)。このリストで「これ持ってる、これ持ってない」とチェックしました。「こんなに出てたんだ」とびっくりしたんです。

これを見てリストを見たり、自分でリストを作ったりすることが好きになりました。こういうものを系統立てて聴いている人が日本にいるんだと初めて知った。実は後でそんな人にいろいろ会って聞いてみたら、「自分もそう思っていた。」って言うんだよね。今の時代と違うから、横のつながりがないんですよ。"束ねるモノ"がこの「Forever」が出るまでなかった。"Forever以前、Forever以降"ということが言えると思いますよ。

 前からオールディーズが好きだったんですけど、これで決定的になりましたね。「Forever」は「読み物」としてしっかりしていていましたね。それから土曜の3時か4時にやっていた「ジム・ピューター・ショー」を聴くために早く帰ってきてカセットテープに録音してました。






-ミニコミにも携わっていたことがあるそうですね。
 オールディーズに狂っちゃったおかげで見事、大学に落ちてしまいまして浪人生活に入ったんです。大学落ちて予備校に願書を出した帰りに新宿レコードに寄ったんです。当時関東では新宿レコードと、あと3店くらいしかなかったんです。確か Buddy Holly のソロかなんかを買って、辛い浪人生活をするのかなあ、と思いながらレコード店を出ようとしたら手書きの Gene Vincent のイラストの大きいポスターが目に入ってきて、そこに「オールディース・ファンクラブ募集中」と書いてある。えっ、こんなことやっている人いるの?ってな感じ。

関西でやっている人は知っていたんだけど、関東でやっている人は初めて。住所を見たら茅ケ崎!さっそくその住所へ往復ハガキを出してみたら1週間ぐらいで返事が返ってきたんです。そこに「今度の土曜日に家まで来てください。」と書いてある。そして最後のところに「あのポスターは半年前に貼ったんですが、返事をくれたのは宮治くんが初めてです。」と書いてあった(爆笑)。この方がオールディーズ入門当時の僕をさらに焚きつけちゃったんです。

 今でもそのハガキは僕の宝物になっています。その方のお宅に行ってみたら1000枚ぐらいレコードがバ〜っと並んでいたんです。殆どオールディーズ。僕はその当時まだ全部で200枚ぐらいしか持ってなかったんですね。その方、神谷さんという方で当時、辻堂の北側に住んでらっしゃって Forever の宮下さんとも交流があったらしいんです。ほんとは勉強しないといけない時なんだけど近いから、毎週日曜日に通ってました。

 これ、Forever 2号なんですけど、WCBSというニューヨークのオールディーズ・ステーション、今もあるんですが、ここが初めて聴取者の人気投票というのをやって、その500位までのりストがVol.2から Vol.4にかけて掲載されていたんです。それで神谷さんに「いったいどれから聴いたらよろしいでしょうか?」と聞いてみたところ、「じゃあ、それの1位から順番に録音しましょうか。」とおっしゃっていただいたんです。 「In The Still Of The Night」、「Earth Angel」、「Since I Don't Have You 」・・・。

 それで生テープを持っていくと、次の週にテープが出来上がっている。毎週それをもらいに行くのが楽しみでねえ。受験勉強をしようと思いつつ(笑)、勉強するときもお風呂入る時も寝る時も、このテープを聴いていましたね。この500位のテープが今のベースになっているんですよ。そして、いろいろと話しているうちに神谷さんと雑誌「Memories」を作ったんです。74年の浪人生の時でした。

 で、この「Memories」実は配布していたんじゃなくて売ってたんです。300円。一応、僕は営業もやっていてユニオンに持っていったら、店員に「そこに置いといて。」と言われて「いや、これ売りもんなんです。」って説明してた(笑)。1号は300冊作りました。

一応、「Momories」は2号で終わったんだけど「Back To The Rock」として続いたんです。表紙も2色刷りになった。このまま浪人していると中途半端で今ひとつ燃えきらないと思いまして、夏が過ぎた頃、音楽を聴くことを封印して勉強。早く浪人からおさらばしたいという思いで必死でしたね。そして翌年、大学(早稲田)に入って、「Back To The Rock」を13号まで作りました。途中から山下(達郎)さんにも送りましたね。そして神谷さんはこの雑誌の名前からとったレコード店「Back To The Rock Record Service」を開業しました。

 アメリカに「BOMP!」っていう雑誌があって、出来る限りこういう雑誌に肉迫しようとしてましたね。

 78年くらいに木崎義二さんの「Popsicle」が出たんですよ。2号が Barry Mann 特集。達郎さんが2号か3号に「一度は書きたかったバリー・マン」を書いていて、それに木崎さんが Barry Mann のソングリストを載せていたんです。でも1割ぐらいの曲しか知りませんでした。これで火がついたというか、音楽を形作っているのは歌手だけじゃなくてそこにはプロデューサーがいて、レーベルがあって、アレンジャーがいて作家がいる、そんなもので出来ていることが分かった。Barry Mann のソング・リストを見て、アーティストよりも作曲家とかプロデューサーの名前を見るクセがつきました。


-当時のロック・ジャーナリズムはやはりミニコミ中心だったわけですか。
 当時はロック・ジャーナリズムも殆どなくてね。

 これにね。(「ロックへの視点」)最後のとこにリストが載っている。昭和47年の本。

 片岡義男さんが訳編集した本。でも半分くらい「音」が聴けてなかった。あと木崎さんがライナーを書いた「ビートルズ フォー・セール」。Beatles は(スタジオで)時間がないとき結構カバー曲をやっているんですよ。木崎さんのライナーで「これはチャック・ベリーの・・・、とか59年に死んでしまったバディ・ホリーの・・・、」とか書いてあるんですよ。聴いたことないので文字情報として「バディ・ホリー、バディ・ホリー、バディ・ホリー・・・・」と頭を巡ってました(笑)。

それが第1次オールディーズ・ブームでバ〜っと出てきたんです。その時も、 Phil Spector のLPも何も出ていなかった時代です。



『ロックへの視点』(写真・中)
カール・ベルツ/中村とうよう・三井徹共訳
(音楽の友社 刊)

『ロックの時代』(写真・右)
片岡義男編・訳
(晶文社 刊)

『ぼくはプレスリーが大好き』(写真・左)
片岡義男著
(三一書房 刊)

-VANDA誌に載った、達郎さんと宮治さんの車中インタビューを読んでいたんですけど、そこに76年に Phil Spector のLPが出るまでは日本では誰も聴いたことがなかったって書いてありますね。
 そうそう大滝さんでさえ全部聴いたことなかったんだから。64年のことが初めて76年に分かった。それがその頃の日本の状況だったんです。 Buddy Holly もビクターから2枚組が出る前は何もなかった。あの当時、輸入盤も殆ど売っていなかったんです。1枚ぐらい入ってきて誰かが買ったらもうおしまいです(笑)。

-第一次オールディーズブームって言うと、映画『アメリカン・グラフィティ』の公開なんかもあったと思うのですが。
 おっしゃる通り。『アメリカン・グラフィティ』は1973年にアメリカで公開されて翌年、日本で公開されたんですよ。73年の11月にそのサントラ盤が出て発売日に買いに行ったら4,000円(2枚組)のはずがオイルショックの煽りを受けて4,400円になっていた!。いまだにそのことを覚えている(笑)。映画を観る前です。映画も日本で上映するかどうか分からなかったんですよ。映画を観た時も流れている音楽ばかり聴いていました。全41曲の半分ぐらいがこれまで聴いたことのなかった曲でした。



Copyright (c) circustown.net 1999 - 2001, All Right Reserved.