Marvin Gaye

What's Going On

1971 " What's Going On " Tamla Motown 310 / LP





 「ついに全面降伏−。サイゴンは崩壊した。こうなる以外ないことはわかっていたが、やはりあまりにもはかなかく、あっけない結末だった。
 たった二ヶ月前まではっきりと存在し、機能していた一個の国が、今、亡びた。あの雑音まじりのラジオから流れた荘重な低音が、決定的にその死を宣告した。なんということか。いまさらのように呆然とし、想いもまとまらなかった。『夢であってくれ』そんな思いが心の一隅を横切った。」(近藤紘一著「サイゴンのいちばん長い日」より)
  何かを鎮めようとするかのような穏やかなベース。夜の帳の下で孤独に鳴いているようなサックスの響き。喧騒に続いてこのイントロが流れてくると、体のどこか一点がにわかに緊張し、自然と居住まいを正そうとしていることに気がつきます。やがて、ことさら声高に主張することなく抑制されたヴォーカルが静かに穏やかに"mother mother"と問いかけるとき、それはある種の諦観を含んでいるように聞こえます。雨に打たれるままにうつろに宙をさまよう彼の視線。裏ジャケットは公園でしょうか、打ち捨てられた遊具の前になすすべもなく沈痛な表情でたたずむ黒いコート姿の Marvin Gaye とカラフルな遊具とのコントラストが、繁栄するアメリカとその向こう側にあるものを象徴的に表現しているのでしょうか。


 ベトナム戦争は取材規制をしなかったことが、国際世論の形成に大きな役割を果たしたと言われています。戦争のリアルで悲惨な映像がダイレクトにお茶の間に飛び込んでくる。それによって国内の厭戦世論が形成されたことも、アメリカがこの戦争に失敗した大きな要素でした。68年1月にベトナム解放戦線のゲリラ部隊がサイゴンのアメリカ大使館を銃撃し、その血なまぐさい銃撃戦の模様がアメリカ国内にテレビ放映されました。戦争の極めて直截的なさまをまざまざと見せつけられ、本当にこの戦争にアメリカは加担すべきだったのか、国民は懐疑的になっていきました。こうした出来事を契機として反戦世論が次第に盛り上がっていきました。
 アレンジは David Van DePitte。アクセントとしてアルバム全編を貫くパーカッションを含め、的確な楽器の配置と控えめに奏でられるストリングスが聴く者にある種の緊張感を持って対峙することを要求します。それは意図的にポップミュージックとしての通俗性を排そうとしているようにも感じられます。またアルバムを切れ間なくつなげることによって聴き手に一定の視座を与え続けることにも成功しています。つまりそれだけ重い。このアルバムは、制作された1970年当時のアメリカの、震えるような空気を伝えることに成功しているという点において、ソウル・ミュージック史上のエポック・メイキングでありえたと思うのです。
 73年のパリ協定による停戦合意でアメリカはベトナムから撤退しましたが、超大国がアジアの小国に屈辱的な負けを喫した戦として、アメリカ国民に多大な犠牲を強いるとともにメンタリティの変化を促しました。「悔恨と癒し」はこの当時のアメリカのポピュラー・ミュージックへも大きな影響を与えます。

 75年4月30日サイゴン無血陥落。

 プロデュースは Marvin Gaye 自身。制作のイニシアチブを自ら初めて執ったこのアルバムは、そうしなければならなかったいくつもの要素を抱えているようです。体制に対する、世界に対する呪詛を施した音楽。ひとりのミュージシャンとしてそうすることでしか癒されなかった男の不幸。私たちは重層的に塗りこめられた決意の深さを聴くことになるのです。

(脇元和征)





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