達郎書き起こしプロジェクト by ロック軍曹とサーカスタウン

1999/01/17 Sunday Song Book「新春対談 Part 3(ゲスト:大瀧詠一)」



竹内まりや/Winter Lovers 1998 Single
アミーゴ布谷/Let's Ondo Again 1978『Let's Ondo Again/ナイアガラ・フォーリン・スターズ』
はっぴいえんど/はいからはくち 1971『風街ろまん』
大瀧詠一/恋の汽車ポッポ 1971 Single
岡林信康/家は出たけれど 1972『大いなる遺産』
はっぴいえんど/12月の雨の日 1971 Single
細野晴臣/チャタヌガ・チュー・チュー 1975『Tropical Dandy』

内容の一部
・ツアー。16(Sat)17(Sun)NHKホールが終ると残り10本。20(Wed)福山、
23(Sat)大分。

・「Winter Lovers」プロモグッズプレゼント。ニットキャップを10名に。
2月いっぱいまで。

以下、放談内容の抜粋。印象に残った箇所のみ列挙します。要約のつもりです
が、濃すぎて圧縮が大変。

・インディーズだった日本のロック
達:番組で「History of Japanese Rock」をやっているんですけど、相手が
でかすぎて。
詠:知っている。息子があなたの番組をよく聞いているんだけど、高田渡が
かかったんで、ああ今週は違う番組かと思って他に回したらしいよ(笑)。
達:大滝さんはURC、ベルウッド、エレックに全部関わった唯一の人でしょ。
詠:それでナイアガラはインディーズだから、俺はハナからインディーズ(笑)。
達:大滝さんや細野さんとか、あの頃の日本のロックってメジャーなレベル
で真面目に売れると考えていた人って誰もいませんね。本当に考えてい
たらあんなやり方はしない。
詠:自分達で見つけようという、前人未踏の茨の道だった訳だから。
達:『Let's Ondo Again』は凄くマイナーでサブカルチャーなアルバムだけ
ど、今はもっと凄いのがタワーレコードで売れる時代。それに比べりゃ
当時のサブなんて超まとも。そう考えたら20年前にレコード会社もね、
それだけの契約期間と枚数にしたんなら、やりようがあったような。
詠:無理だったんじゃないの?実験作だし、100万枚とか売れたらそれもね。
1000枚とかでいいんだよ。

・返品率
達:自分が居たRVCでは、他に吉田美奈子や桑名正博が居て、RVLの8000番台
がニューミュージックに割り当てられてた。大して1〜2万枚しか売れな
いんだけど、毎年の在庫調整によればそのセクションの返品率が異常に
少なかった。方や歌謡曲は下駄を履かせるからもの凄く返品があった。
我々のはグロスは少ないけど健全在庫だった。それで8000番台を強化し
ようということになり、桑名、越美晴、竹内まりやが売れて来て、それ
でニューミュージックが売れるようになった。
詠:上げ底をやっていくといつか破綻するんだよ。経済がとっくにそうだし。
達:ナイアガラのカタログも、あの頃は無茶苦茶なオーダー付けないから。
詠:中古であれだけ売れるんだから、返品は皆無と言っていいね。
達:だから販促的にもうちょっとやれたんじゃないかと。たらればですが。
詠:でもあの音楽はああいうもんだったと思う。いつも言うけど「あったの
か、なかったのか」で終るのが良いところでしょう。で、君は君で居る
訳だから、ある種の精神は受け継がれている訳だし、これでもうバトン
タッチしたってことで世代的にいいんじゃないですかねえ。

・歌い手としての大滝さん
達:まあ、大滝さんは歌がうまいから、歌を聞きたいっていうのがあるよね。
詠:俺は戦前で言えば堀内敬三だと思っているけど、堀内さんは歌わないか
ら楽だったと思う(笑)。さっきに戻るけど、歌というものだけ特別に皆
思っているからさあ。で、歌謡いの割に理屈を言うなとかいろいろ言わ
れたりする。
達:じゃあ大滝さんは自分で歌う行為はプライオリティ高くないんですか?
詠:はっぴいえんどで終ってんだと思う。
達:はっぴいえんどって大滝さんの歌であって歌じゃないですね。恣意性が
高いというか。
詠:バンドのボーカリストだから固有のもんじゃないからね。でもあの頃が
一番声が出てた。だからずれてんだよね、もう(笑)。常にずれずれの状
態で来てる。だから10何年とやっていけてんのは君のお蔭だよ。継続
してたかのように見せてくれたのがポイント。
達:(笑)でも、ナイアガラで度肝を抜かれ、既成の概念を破壊された人が業
界に入るんですから。業界の30代の中堅の人、テレビのプロデューサ
やら放送作家の人がナイアガラで育ったから今の大滝さんは今でも。そ
れはまごうことなき事実ですから。
詠:だってこの番組業界向けだから(笑)。一般の人が聞いてもわからない。
俺は放送やる時はいつも業界向けにしか言ってないよ。そこに一般の人
が同次元で入ってもらっても困るのよ。
達:排他的(笑)。浅草のてんぷら屋だね、こりゃ。
詠:で、そこで何がしか思ったら入って来て欲しい訳よ。

・ベルウッド時代
達:URC、ベルウッド、エレックの話ですけど、体験者として。
詠:図らずもだよ(笑)。好きで渡り歩いたんじゃないよ。でもね、大手レコー
ド会社の新人オーディションで歌手になる人、ビクターの平野愛子さん
とか、そういうのとまるで逆なんだものね。
達:上からピックアップするんじゃなくて下から出たって言うのはあの頃だ
けでしょうね。
詠:ものが始まる頃っていうのは皆そうで。その頃は格別下からだったね。
達:ベルウッドの設立第一弾が「赤色エレジー」。
詠:そう。大ヒット。あがたはかくし芸に出たんだよ、下駄履いて。
達:見ました。
詠:ベルウッドの直前が「恋の汽車ポッポ」。まだキングだった。はっぴんえ
んどのシングルもそう。三浦光紀(設立者)はベルウッドにするか汽車ポッ
ポレーベルにするかで迷ったらしい。気分的にははっぴいえんどの「12
月の雨の日」からベルウッド的なもんだったろう。「空飛ぶくじら」は
ベルウッドだった。

・はっぴいえんどのデビュー
達:丁度端境期なんですね。でもなんでそもそも1stはURCから?
詠:そこしか声かけてくれなかったからでしょ。細野さんと僕と二人で
'Chelsea Morning'を歌って、目黒のどこかの歩道橋のところで小倉エー
ジからどこか契約しているのかと聞かれた。彼はURCで何かやってて。
達:関西の人ですよね。
詠:当時は高石音楽事務所だった。それでURCは関西にあると思われて、はっ
ぴいえんども関西と思われていた。他に誰も声をかけてこないし、持っ
てってもダメでしょう。だってSugar Babeだって東芝とかコロムビアと
か持ってって、うーんと唸られて。『Niagara Moon』だって『CM』だっ
てうーんと唸ってたんだもん。今の人なんて信じられないでしょう?
達:そうでした(笑)。その5年前なんて推して知るべしでね(笑)。

・「日本語のロック」へのきっかけ
達:はっぴいえんどが出た当時、日本語でロックを始めた人ってあまり居な
かったでしょう。全員で意志統一して始めたんですか。
詠:3人で。まあ、ちょっとした思いつきであって。今だに拘っている奴も
いるけど、どうだっていいんだよ。ロックは英語圏のものだから英語で
やるべきというのに反抗したのと、それより日本語でやったら面白いだ
ろうという単なるアイディア。そもそも外国曲に日本語に乗せるのなん
て唱歌の頃からあるし、そこからオリジナルの方へ活かして行くのも山
のようにある。後で考えると長い伝統の中のやり方の一つでしかない。
風潮としては英語でやって世界に出て行った人もいた。明治の頃と一緒
で、明治には文部省が日本語を捨てて英語にするとか真面目に議論した
んだから。僕と細野さんには(日本語のロックという)そういう考えはな
かったんだよ。エイプリル・フール聞けばわかるけど、小坂忠は英語で
歌ってる訳だから。
達:松本さん自体も単なる思いつきだったとか。岡林のバックで、彼の歌を
聞いて、そういうやり方もあるのかと思ったそうですよ。
詠:岡林とやる前から「12月の雨の日」とか「春よ来い」はとっくに出来て
たよ。遠藤賢司の「夜汽車のブルース」は前にあったと思った。あれの
影響というか、ああいうやり方もあるのかとは思ったけど。
達:彼らも3年前にはVanilla Fudgeとかジミヘンやってたんですもんね。
詠:松本の日本語の詞を英語に直すとか。まあ松本の詞は1曲だけあったか。
小坂忠の実験作も大きかったね。こういう乗せ方があったのかと。で、
遠藤賢司があって、もちろん高田渡や岡林信康もあるけど、俺は聞いて
いないから(笑)。

・岡林信康
達:大滝さんは岡林さんと何十本もやってたでしょ?どう思われましたか?
詠:なんなのかな、って思ってたんだけど(笑)。面白い人でしたよ。最後な
んか「家は出たけれど」というクレイジー・キャッツのようなコミック
ソング、自己否定のようなのもあったりしてね。でも、やっぱり無理し
てるんじゃないかなって思った。で、常に無理はよくないよと(笑)。
達:時代と共振しちゃったから。
詠:無理したいっていうのはある訳。わかるんだけど、延々続けるとどこか
で副作用が出るんだよ。だから今「エンヤトット」の世界に戻るのは当
然の帰結。あれはあの人本来のもの。「友よ」「チューリップのアップ
リケ」にしても前からエンヤトットなんだよ。全然別のもんじゃない。
でも自分の中では違うと。
達:エレクトリック幻想というのがあるからね。
詠:彼は当然その辺わかっててああいうのをやっていると思う。我々は無理
はなかった。でも当時の日本語の歌としては変だったんだよ(笑)。

・はっぴいえんどQ&A
達:初めてお会いした頃に聞いた、悲惨なツアーの話などを。体育館で雪が
ばんばん降ってとか。
詠:松本君のタムタムが一発目で割れたり。アンプが無くてボーカルアンプ
に全部突っ込んだりとか。やってる内にベードラが前に出て落っこちた
とかね(笑)。
達:はっぴいえんどのライブで解散するまでの間どれくらいやったんですか?
長崎まで行ったんですよね。
詠:最後の時は2,30くらいやったかな。繰り返しになるけど、我々は作家性
が強いからね。
達:Recording Groupだからライブに対する意欲というのが無いんですか?
詠:ないと思ったよ。作家の集団だしね。後見りゃわかるじゃない。レコー
ドだけで商売になったらライブなんてやんなかったよ。
達:未発表テイクってあるんですか?
詠:別テイクとかあるけど、作品的にはデモテープ段階ならある。何曲か。
達:作品としてFixしたものしかレコーディングしてないのね。
詠:そうね。予算の関係もあるし。やったら即出したし。これはダメってい
うのは後にも先にも細野さんの「風をあつめて」だけでしょう。

・「12月の雨の日」
達:「12月の雨の日」のアルバムとシングルのはテイクが違うんですか?
詠:スタジオが違う。アコースティックギターは2本。シングル盤は12弦で、
4回〜6回重ねている。8chを2chに落してから8chしている。ダビングを
重ねてドラムの音がえらく遠くなった。エンジニアはキングの山崎さん。
達:僕はシングルバージョンが好きなんですよ。イントロのリフは最初から
完成していたそうで。
詠:あれには鈴木茂の天才性というか。初めて細野さんが連れて来て最初に
弾いたフレーズなんだから。デモテープをパッと聞いてだよ。
達:居たんですよね、あの頃はそういう人が。
詠:まさに歴史的必然というか。出会いというのはそういうことなんだね。
あのイントロ入ってなきゃどうでもない曲だよ。ベートーベンの「運命」
に匹敵するイントロだと思うね。
達:ベートーベンはあそこまでに推敲を重ねますからね。一発は凄い。
詠:そうね。「Be My Baby」のイントロも3時間ベードラをかけたとか、吉
田正さんの「有楽町で逢いましょう」のイントロも随分時間をかけたっ
ていうね。やっぱりイントロはみんな考えるね。で、細野、大瀧、松本
でイントロを考えあぐねたけど、3人の英知を持ってしてもできなかっ
た。そこへポコランと鈴木茂が現われて、ひゃっとああいうことをやる。

・数奇な運命
達:エイプリルフールからはっぴいえんどに行ったのは?
詠:細野さんの意志ですね。
達:なんで忠さん使わないで大瀧さんになったんですか?
詠:彼は「Hair」へ行ったから。あのおっさんが行ってなきゃはっぴいえん
どは小坂忠だった。運命だねえ。じゃなきゃ俺はあんなことやってない
んだから。
達:(笑)じゃあ大瀧さん、はっぴいえんどやってなきゃ何やったんですか?
高田文夫さんみたいになったんですかね。本質的に芸能会向きではあり
ませんからね。
詠:向いてませんね。かと言って、日常生活、社会生活は不適合ですよ。音
楽は好きですよ。芸能事全般。表だってやるのは不向きだと思う。
達:こうやって25年の大瀧さんの人生を聞いていくと、数奇な運命というか。
詠:綱渡り的な、なかったかのような感じですよね。君らの世代はあるべく
してあるように思うけど。我々の横を見ても結構数奇な運命だし。

・松本さんと細野さん
達:はっぴいえんど見ても茂だけはミュージシャンという佇まいだけど、他
の人はちょっと変わってる。
詠:僕は置いといても、あの二人は変わってる(笑)。ほんと天才だと思うよ。
達:松本さんは心の底から歌謡曲が好きなんだね。でもああいう出自の人が
その世界で花開くというのも不思議な感じ。
詠:彼は西条八十だと思うよ。あの人は純粋詩から入って芸者ワルツまで書
いた人なんだから。あの幅広さは戦後の西条八十。君がある意味合いで
三波春夫の流れがあるのと同じ。俺は自分で堀内敬三だと思っている。
細野さんは細野さんで変わっている。
達:細野さんはある意味で日本のフォークとロックで音楽家としてのスタン
スを定義づけているというか。
詠:あの人を研究した方がいいと思うよ。俺は横に居る人間だから(笑)。あ
の人はちゃんと真中にいる人で。
達:ティン・パン系と言われた全てのInstrumental Playerは細野さんを目標
にしてましたから。
詠:彼は自分でPlayerだけじゃないというけれど、あの人を越える総合力を
持った人っていないんだよ。
達:Bassは戦後で日本一ですね。
詠:今となっては世界の中でも随分と上の方だと思うよ。ああいう偉人と巡
り合えて(笑)。よく岩手から出て来て、どうやって知り合ったんですか
と言われるけれど、二番目に知り合った東京の人が細野さん。最初が中
田(佳彦)君。その前に布谷さんがいるけれど。ラッキーでしたねって(笑)。
達:ほんとに最初に変わってる人と会ったから、最初に会った人を親と思っ
てしまったんですね。僕と同じですよ。僕も最初に会ったミュージシャ
ンを一般化しましたから(笑)。
詠:昨年の事も含めて、私はラッキーで生きていますから(笑)。

・「2001年」と市川さんのアルバム
達:さあ、新春放談も後3回やって2002年にはさあどうなっているか(笑)。
詠:2001年には出来上がってますよ。2001年3月発売だから。少なくとも4曲
はできあがっている。2000年の後半にはそれを出しておきます。申し訳
ないけど、それが最後のつもりで。楽しみだね。これから2001年の(新春
放談)録ってもいいぐらいだよ(笑)。
達:とりあえず、今年の御予定は?
詠:何にもない。
達:(笑)市川実和子さんのアルバムは?
詠:出るんじゃないですか?
達:(笑)人まかせ?
詠:自分のもんだけ、2、3曲。編曲は井上鑑と分業している。後は各々やっ
てて、僕はお手伝い。パート指揮。ほぼ何にもしないに等しい。曲は、
細野さんが1曲書いているんですよ。これ面白いよ。自分のより。杉(真
理)君が16歳のを1曲、平松愛理さんが20歳だったか、多幸福さんも
1曲書いているし、(筒見)京平さんに34か36の最後をお願いした。
達:錚々たる作家陣ですね。
詠:よく並べたって言われるけどね、全部詞先。先にテーマがあって、そ
こから作家を選んだんだ。
達:女の一生ですね。
詠:杉村春子ね。その割には歌がなかなか到らないんだけどいいじゃないの
(笑)。企画倒れは俺の得意。来年はそれだけ。再来年は何もありません。
4曲が出るってだけです。
達:それは相当(笑)。リップサービスか半分本音が見分けつきますね(笑)。

今後の予定ですが
・「History Of Japanese Rock」再開。
1/24はPart6。ティン・パン・アレーとナイアガラの2つの流れを中心に。



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