2017.05.07 - Producer
ベルウッド45周年記念 レコード “いい音” Live  with 三浦光紀 ベルウッド45周年記念 レコード “いい音” Live with 三浦光紀
三浦光紀

(2017)

「人材集めと環境の用意、いいプロデューサーは何もしないことです」

こう語るのはベルウッド・レコードを立ち上げて45周年のプロデューサー三浦光紀さん。連休初日の昭和の日、イベント『ベルウッド45周年記念 レコード“いい音” Live with 三浦光紀』が “いい音” エルプの竹内孝幸さんの案内で開催されました(2017年4月29日武蔵小山アゲイン)。

元々前に出たがらない性格なのか、アーチストへの敬意がそうさせるのか、三浦さんの語り口は謙虚そのもの。しかしその内容は乗り出した身がコーヒーカップに入るほどのもの。小室等とキングレコード教養課、はっぴいえんどのロス録音、大瀧詠一・山下達郎出会いの深層、加川良との親交、矢野顕子のアルバム制作、喜納昌吉のアルバム制作...イベントで三浦さんが選曲した10曲10枚のレコードを軸に、トークを振り返ります。(文中、敬称略)




「ベルウッドはコンセプトレーベルで、理念はフォークウェイズ、音はバーバンクがやりたかった。言葉を重視していたが、矢野顕子の選曲基準が『詩』ということを聞いてわかってくれていると思った。」

ベルウッド・レコードはキングレコードの社内レーベルとして発足、1972年4月25日のあがた森魚の「赤色エレジー」のシングルが最初のリリース。

「当時レコード会社には専属制度があって、ミュージシャンやスタジオを自由に使えなかったので、レーベルを作りたかった。キングが非常に理解があって、26,7の若者に人事権と予算を与えてくれた。」

三浦は退職するまでキングの社員としてベルウッドの運営に携わる。一方、ミュージシャン側でレーベルの立ち上げに関わった中心格が小室等であった。


komuro あげます
小室等
私は月には行かないだろう (1971.5)

三浦光紀は1968年にキングレコードに入社し教養課で働く。担当した仕事の一つが小室等のギター教則レコードの制作であった。(フォーク・リバイバルを掲げていた)米レーベルのフォークウェイズが頭にあったという。そこであまりフロントで歌いたがらない小室等を説得して製作したのがこのファーストアルバム。「あげます」はフォークギターの一音一音がきれいな音を奏でます。
「ベルウッドのモットーはアーチスト至上主義とレコード芸術の追求。商業的価値より文化的価値。」三浦の職場が教養課であったことも、理想の追求のためになったという。

その後、小室等はフォーライフ・レコードを設立しベルウッドを離れることになるが、三浦はフォーライフの設立にも力を貸し、かつフォーライフに加わることもなかった。この一連の行動もアーチストを第一に考えてのことである。


takada しらみの旅
高田渡
ごあいさつ (1971.6)

アメリカのフォークソングに明治の艶歌を組み合わせることをことを思いついて、高田渡が誕生した。ディランもガスリーも曲を見つけてきて詩を乗せることをやっている。一度、三浦は高田と(原詩の)添田唖蝉坊の子息に挨拶に行ったことがあったそうで、「父もやっていたことですから」と逆にこの翻案を褒めてもらい安堵とのこと。(関連
「『高田渡はロックだ』と大瀧詠一は断言していたが、URC時代の渡は Woody Guthrie で、ベルウッドでは Ry Cooderだと思っていた。」
「しらみの旅」ははっぴいえんどのバッグでめちゃくちゃドライヴする音が鳴っています。

ここまでがプレ・ベルウッド期。


ohtaki びんぼう
大瀧詠一
大瀧詠一 (1972.11)

大瀧と高田は仲が良かったそうで、スタジオで三浦と三人でよく雑談をしていた。「びんぼう」は(大瀧に珍しく)シャウトなのだが、それは「細野晴臣に『ロックシンガーならシャウトぐらいしろよ』と言われたからで、布谷文夫にシャウトの仕方をおそわり」レコーディングにのぞんだ。歌詞の世界は高田渡の影響下である。なんでも「池袋の西武デパートの前で屋外イベントが組まれ、たまたま通りがかった大瀧のお母様とお祖母様が「びんぼう」を聞いてしまい、曰く『うちはそんな貧乏をさせたつもりはない』」との逸話が残っている。

大瀧詠一と山下達郎の出会い(自主制作盤『Add Some Music To Your Day』の件)はもはや伝説となっているが、それにも三浦は大きく関与している。元々 ごまのはえ(伊藤銀次)を見つけてきて大瀧にプロデュースを頼んだのが三浦で、三浦と大瀧は一緒に大阪に ごまのはえ を見に行っている。一方、山下は はちみつぱい の本多信介と仲が良く、アンプを借りたお礼に『Add Some』を渡し、それを本多が高円寺のムーヴィン(和田博巳)に持ち込み、伊藤と駒沢裕城が聞き大瀧詠一にご注進と相成ったのは伝説の通りである。三浦が ごまのはえ や はちみつぱい(ひらがながおおくてかきにくい:)を見出さなかったら、と歴史の点と線を考えるのも興味深い。

なお福生に転がり込んだ伊藤銀次であるが、ごまのはえのレコーディングがいつまでたっても始まらない。三浦が訊くと「音楽の練習ではなく野球の練習しかさせてもらえない(伊藤)」という。「しかたなく福生に話しに行ったら、逆に丸め込まれて野球の試合をさせられた。3番大瀧、4番布谷でONだからこの打順。」と完全に丸め込まれている。


hend さよなら通り3番地
はっぴいえんど
Happy End (1973.2)

「高田渡と大瀧詠一と雑談をしていて、どうしてもアメリカのレコーディング現場を見てみたいということになった。じゃあ はっぴいえんど でということになり、大瀧にメンバーを説得させて渡米となった。バーバンクサウンド(注、Harpers Bizarre, Van Dyke Parks, Randy Newman, Ry Cooder, Little Feat, ...)をやりたいと伝えていたところ、現地コーディネータが Sunset Sounds をおさえてくれていて、Little Feat が使っているスタジオだった。」
レコーディングでは鈴木茂が大活躍で「さよなら通り」では Feat の Lowell George と Bill Payne を従えて、独特の厚みのある音が記録されている。

一方、大瀧詠一はソロを出したばかりで曲がない。「食事抜きで一人3曲ノルマ」としたそうだができない大瀧が、完成していない「さよならアメリカ」を歌ったところ、Van Dyke Parks が完成させてしまったそうだ。Van Dyke の音の重ね方を通して、世界のレコーディング水準がわかったという。ちなみに Van Dyke Parks は、三浦が西海岸でレコーディングをするたびに(他に、矢野顕子、高田渡時も)現れてはまず演説をし(クジラを食うな、太平洋戦争は日本が悪い、アメリカの音楽を盗むな...)、色々な貢献をしてくれたそうだ。


hosono 薔薇と野獣
細野晴臣
HOSONO HOUSE (1973.5)

『Hosono House』はエンジニアの吉野金次が購入した 16ch マルチレコーダーを細野の自宅に持ち込んで録音した、日本初の画期的なもの。細野に尋ねたところ、この「薔薇と野獣」がよいという、三浦はシングルに「恋は桃色」を既に決めてしまっていたというが。

「細野さんはぼくのアイドル、なりたい人ナンバーワン。細野さんは詩もいい、渡や友部正人から影響を受けている。」細野・林のリズムのダイナミズムがカフェに再現される。


hpie 塀の上で
はちみつぱい
センチメンタル通り (1973.10)

「はちみつぱい の現在の評価は物足りない。はっぴいえんど と2大バンドだと思っている。山手と下町、The Band と Dead の関係。鈴木慶一の詩もすごくいい。」
筆者個人的にはこの「塀の上で」の音の印象が、今回エルプのレーザーターンテーブルで聴いたレコード音一番の衝撃。


kagawa かかしのブルース
加川良
アウト・オブ・マインド (1974.11)

「加川良は日本で一番好きな男性ヴォーカル。スワンプを歌わせたら一番。」
三浦は加川を本名の小斉で「こさいさん、こさいさん」と呼ぶ。「世俗的な価値観にとらわれない人のためにレコードを作る」という当時のメモが出てきたそうであが、加川良はまさにその体現者なのだろう。加川をしのんで、さらにもう1曲「教訓I」を聴いた。

「かかしのブルース」のものすごく粘っこく熱いフォーリズムがエルプのシステムから出てくる。
「当時西岡恭蔵が家にいたが、西岡を慕って関西から林敏明と田中章弘が家出同然でやってきた。彼らが合うと思って、鈴木茂と組ませて、キーボードは佐藤博に頼んだ。」人材集めの妙。そしてハックルバックの誕生である。(関連

この後、フォーライフ設立の一件などもあり、三浦光紀はキングレコードを離れ、フィリップスに移ることになる。しかしそれもアーチスト主義あってのことで、さらには世界に出られる人を作ろうとコンセプトが拡張されることになる。


agata つめたく冷やして
あがた森魚
日本少年 (1976.1)

あがた森魚はベルウッドから一緒にフィリップスに移籍してきた。あがた森魚は歌が上手い。これを会社の会議で散々言っても誰もとりあってくれなかったが、矢野顕子曰く「あがた森魚は日本で一番歌が上手い」、久保田麻琴曰く「国宝級の声」。

「あがた森魚は自慢話をしないが、唯一なんども語るのが証券会社での勤務。バイトで黒板書きがとても上手く書ける。なお、そこに鈴木慶一の母親が勤務していて、あがたを発見し『うちにも似た子がいるわよ』と。」(←すばらしい)二人の関係はそこからずっとのものである。

『日本少年』はプロデュースを細野晴臣と矢野誠+鈴木慶一に頼み製作した。(「つめたく冷やして」はエルビスの日本語替え歌だが)レコーディングに矢野誠の代わりにたまたま来たのが矢野顕子。歌詞カードを見てすぐにイントロをつけてくれ「ただものではない」とその出会いの衝撃を語る。コーラスは香港赤色ジョダネアーズこと矢野顕子+大貫妙子+山下達郎。


yano 電話線
矢野顕子
Japanese Girl (1976.7)

どうしてもしたかった矢野顕子のレコーディングが実現。当初国内でリハのリズム隊がしっくりこないというので、ロスレコーディングを提案、Little Feat 起用を思いつく。
「さすがに Little Feat 全員とは言い出せないので、リズム隊だけを頼んだ。ところが Lowel George が勝手に見に来て、気がつくとトイレで練習を始めていて、レコーディングに参加してくれた。翌日は尺八まで持って来た。」
『Japanese Girl』というタイトルは、アッコちゃんが今度は『日本少女』がいいというので、「それでは工夫がない」ので英語にしたという。
エルプの音から火花散るレコーディングが再現されます。


kina ハイサイおじさん
喜納昌吉&チャンプルーズ
喜納昌吉&チャンプルーズ (1977.11)

「喜納昌吉のことを聞きつけて、会社の休みの時に沖縄に行ってみた。ミカド(喜納の民謡ライブハウス)でまるで Bob Marley みたいにみんなトランス状態になって踊っていた。」
既に「ハイサイおじさん」は沖縄を超えて知られつつあった。三浦は東京でのレコーディングを強く勧めるのだが、喜納昌吉は乗り気でない。それでも政治の話など、色々な話をしてうちとけることはできた。しかし、地元にこだわる喜納と「単なる民族音楽ではだめだ、世界のサウンドを」と主張する三浦の議論は平行線。そこでミカドでのライブ録音を矢野誠らが東京でオーバーダブする形でリリース。この後の成功は我々も知るところとなる。

Jimmy Cliff には「(東京でのオーバダブは)Island Record の Chris Blackwell が Bob Marley にしたことと同じこと」と教えられ、さらには Richard Thompson は「ハイサイ」をカバーをしてくれた。小室等とフォークで始め、世界を目指した結果が Fairport Convention に帰着する奇跡である。



ここまでの10曲、たっぷりといい曲をいい音で楽しまさせていただきました。

イベントのおしまいにはこんな曲たちも紹介されています。

Orange Paradox / 新津章夫
I/O (1978)

ひとりの天才ギタリストによる宅録多重録音。この曲は騙し絵の音楽版「回文ミュージック」というもの。実験音楽的ながら音色がかわいいポップな印象。アゲイン店主によるリクエスト。「自分の方から言い出せなかったので、よく言ってくれました」と相好をくずす三浦さん。

クリーニングはエイハブ / あがた森魚&はちみつぱい
ベいびぃろん (2017)

先日ライブも行った、あがた&慶一コンビの一作、三浦光紀プロデュースの最新作。楽曲も演奏も強いです。「壮大で、アーシーで、アバンギャルド」と三浦さん。

ろっかばいまいべいびい / 矢野顕子&細野晴臣
The Best Songs of Bellwood (2017)

ベルウッド45周年ベスト(本ページタイトルにジャケット掲出)の特別収録曲。矢野顕子+ TIN PAN さとがえるコンサート2016 より。「細野さんは Quality of Music の王様、アッコちゃんは女王様」と締めくくる三浦さん。まさにそうだ。そして彼らを支えて来たのがこの人だ。



「ベルウッドはニューミュージックの宝庫と思っていましたが、鈴木慶一が『Jポップのルーツは70年代』というので、ルーツミュージックの宝庫というようにしています」

ぼくらのルーツを作ってくれたのが、三浦光紀さんだ。
三浦光紀さん、エルプ竹内さん、ありがとうございました。
来てよかったでしょ、という帰り際のアゲイン店主の笑顔が忘れられません。

(たかはしかつみ)




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